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「一拳――」
滝本さんが、いちだんと険(けわ)しい声で沈黙をやぶった。
「おまえは構えに対する理解がたりない。おまえがとったあの構えは、ニュートラル・ポジションになっていない。相手のパンチに反応できず、パンチをまともに喰らったのがその証拠だ」
「…………」
霧山さんは何も言葉を返せずに黙り込んでいる。
事実を突きつけられてしまったら反論なんてできないだろう。
「一拳、おまえは力がはいりすぎているんだ。
あんなふうにガチッと力(りき)んだ構え方じゃ意味がない。構えってのは中立の状態なんだ。攻撃、防御、移動がいつでも瞬時(しゅんじ)にできてこそ、中立としての意味がある。
だがな、おまえの構え方のようにガチッとかたまっていたら、瞬時に反応して動くのは不可能だ。
言うなれば、おまえの構えは物体的な中立――死物(しぶつ)の中立だ」
「死物の中立……」
「ガチッとかたまっている状態は、たしかに中立だ。とまったまま動かないのだから偏(かたよ)りはない。
だがそれは、けっして動かないもの、命のないものにおける中立だ。
そんな命のない中立は、闘いにおいてはなんの役にも立たない」
「…………」
「生命的な中立――生きてる中立ってのは、真ん中の付近(ふきん)でやわらかく、ゆるやかに動いている状態のことだ。
動いてはいるが、中心から大きくそれることはなく、つねにバランスのとれた状態をたもっている。
それこそが命あるものの中立だ。そして、構えに求められる中立なんだ」
「………………」
「たとえて言うなら、綱渡りのバランスだ。
綱渡りの名人は、綱の上でピタッととまっているわけじゃない。そんなことをしたらあっという間に綱から落ちてしまう。
綱渡りの名人は、とまっているように見えても、バランスの中心付近でゆるやかに揺れ動いている。右にかたむきかけたらすかさず左に重心を移し、左にかたむきかけたら右に重心をもどす――その絶え間のない小さな動きによって中心にとどまりつづけているんだ。
これこそが『生きた中立』の見本だ」
「……………………」
霧山さんは口を真一文字(まいちもんじ)に結んだまま考え込んでいる。滝本さんの言葉を反芻(はんすう)し、頭のなかで整理しているのだろう。
やがて、霧山さんは言った。
「……つまり、構えにはリズムが必要だと言うことですか?」
滝本さんの顔に笑みがひろがった。
「そうだ、一拳! そのとおりだ!
やわらかくリズムをとること。攻撃や防御をしていないときも、けっしてとまらない。構えの姿勢のままやわらかく動きつづける。小刻(こきざ)みな前後のシフト・ウエイト、肩を小さく揺らす動作――そういった柔軟(じゅうなん)な動きでリズムをとるんだ。
そのゆるやかに動きつづけている状態が『生きた中立』になる。いつでも瞬時に反応できる構えになる。一瞬の隙(すき)ものがさない正確な攻撃、余裕をもって見切る堅実な防御――それを可能にする構えになるんだ」
そこまで言い終えると、滝本さんは椅子(いす)から立ちあがった。
「一拳……残された時間はあとわずかだ。ベストを尽くせ」
霧山さんにそう言い残し、滝本さんは事務室をあとにした。
部屋には、オレと霧山さんが残された。
オレたちふたりは、言葉もなく会議用テーブルに着いていた。
オレはふと思った。
滝本さんもきっと霧山さんに現実を突きつけるのはつらかったにちがいない、と。
滝本さんは厳しいことをたくさん言ったけど、それはぜんぶ霧山さんのためを思ってのことなんだ。
次の試合でまけたら引退――この逆境から霧山さんを救いだすには、心を鬼にして事実を知らしめる必要があったんだと思う。
霧山さんは、何も言わずに椅子に座りつづけている。
その顔から陰(かげ)りが消えていた。微笑んでいるかのような明るい表情さえ浮かんでいる。
それは、闇のなかに光を見いだした顔だった。
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