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どよめきが起こった。
大賀烈が、ロープをつかんで立ちあがろうとしている。
た、立つのか……!?
ニュートラル・コーナーで待機しているカツオは、驚愕(きょうがく)し、目をみはった。
立つな、立たないでくれ……。
もしこれで決まらなかったら、カツオにはもう引き出しが残っていない。
体力もほとんど残っていない。
このまま決まってほしかった。
烈は、ロープを1段ずつよじのぼるようにして体を立たせていく。
脚(あし)が震えていた。
立ちたいという気持ちがあるのに体が言うことを聞かない――そのもどかしさをカツオは知っている。
『立たないでくれ』という想いと『がんばれ』と応援したくなる想いが心のなかで交錯(こうさく)し、カツオは不思議(ふしぎ)な感覚にとらわれた。
「……セブン、エイト」
月尾会長がカウントを進めていく。
烈は、最上段にすがりつくようにして立ちあがった。
脚がぶるぶる震えている。
「……ナイン」
月尾会長がカウントを進める。
「烈、ロープをはなせ!」
片倉会長が叫んだ。
「ロープをつかんでいるうちは、カウントはとまらないぞ!」
烈は、ロープをはなした。
脚が、がくがく震えている。
「ぐぬぅぅぅぅぅ!」
歯を食いしばり、脂汗(あぶらあせ)を流しながら、ファイティング・ポーズをとろうとする。
しかし、震える脚はバランスを保(たも)てなかった。
前のめりに倒れ、キャンバス(床)に両手をついて四つばいの姿勢になる。
「……テン!」
月尾会長が、10カウント目を口にした。
わああっ、と大きな歓声があがった。
「カツオ!」
滝本トレーナーがリングのなかに駆け込み、カツオに抱きつく。
「やりやがった! 本当に勝っちまいやがった! まったく、おまえってやつは、最高だっ!」
「勝った……オレ、勝ったんだ」
少しずつ実感がわいてきた。
「勝ったんだ! あの大賀選手に、勝ったんだ!」
「そうだ、カツオ! おまえの勝ちだ! ノックアウト勝利だ!」
内側から歓喜がわきあがってきた。
あふれだす感情を解き放つかのように、天をあおいで叫ぶ。
「うおおぉぉぉぉ! やったああぁぁぁぁぁ!」
カツオの叫びに応えるかのように拍手喝采(はくしゅ・かっさい)が起こった。
リングの周囲に群がる練習生たちがみな、カツオを称(たた)えている。
プロボクサーの先輩、星乃塚と霧山も、笑顔で拍手を贈っている。
そのすぐそばで、俊矢がいつも以上に目を潤(うる)ませていた。
いまにも泣きだしそうな顔になりながらもカメラはしっかりとリングに向けており、カツオの姿を撮影しつづけている。
カツオは撮(と)られていることを意識して、なんだか急に照れくさくなった。
「そうだ、相手のコーナーにあいさつに行かないと」
対戦が終わったあとは、相手のコーナーにあいさつに行くのがボクシング界の習(なら)わしだ。
前回のスパーリングのときはカツオが介抱されていたため、あいさつを交(か)わすことができなかった。
カツオは烈を見た。
ノックアウトの瞬間とおなじ、四つばいの姿勢で倒れている。
かたわらで片倉会長が膝(ひざ)をつき、烈に寄りそっている。
烈の目から、涙がこぼれ落ちていた。
「くそ! くそっ! くそおっ!」
キャンバスに鉄槌(てっつい)を打ちつけて、くやしがっている。
あの強気な烈が、涙を流し、床を叩いてくやしがっている。
「カツオ」
滝本トレーナーが言った。
「今回にかぎっては、そっとしておいてあげるのがボクサーとしての礼儀だ。あいさつは、彼が帰るときにすればいい」
滝本トレーナーが言った。
「今回にかぎっては、そっとしておいてあげるのがボクサーとしての礼儀だ。あいさつは、彼が帰るときにすればいい」
「はい」
勝つ喜びの裏には、まけた者のくやしさがある――
勝負の世界がシビア(厳格)であることをあらためて痛感させられる。
だからこそ――
と、カツオは思う。
勝者は、勝つ喜びを大切にしなければならないんだ。
相手に対する敬意をもって、この喜びを噛みしめるべきなんだ。
勝つとは、相手に敗北を与えるとは、そういうことなんだ。
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