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異なるスピードの概念
烈は、大の字になって倒れている。
「そうか!」
俊矢は興奮し、思ったことがそのまま声にでた。
「カツオさん、このパンチを練習していたのか!」
霧山が、俊矢に視線を向けた。
「俊矢には、いまのパンチが見えたのか?」
「はい。すごく速いパンチでしたけど、見えました。変則的なワンツー・パンチが」
変則的なワンツー・パンチ――
それは、烈がクロス・アームブロックを解(と)き、顔の正面が無防備になった一瞬を狙って放たれた。
変則だったのは、ワンツーの「ワン」――つまり、1発目の左ジャブだ。
通常のジャブは、相手の顎(あご)をめがけて正面に放つ。
しかしカツオは、烈の額(ひたい)をめがけて、下から上へ突きあげるようにして放ったのだ。
この左ジャブによって烈の顔が跳(は)ねあがった。上を向いたかっこうになり、顎があがる。
この瞬間、カツオはワンツーの「ツー」――右ストレートを、瞬発力をフルに使い、ショート(短打)で放った。
カツオの右拳が、高速で烈の顎をつらぬいた。
そして、あの打たれ強い大賀烈がくずれ落ちたのだ。
「練習であのワンツーを打ってる姿を見たときは、何をやっているのかさっぱりわかりませんでした。最初の左ジャブを、頭のはるか上まで突きあげていたんですから」
接近した状態で、相手の額めがけてパンチを突きあげると、打ち終わりの拳(こぶし)の位置は角度的に頭よりも上になる。
シャドーボクシングをやっている姿を見たときは、「いったいどこを打っているんだ?」と首をかしげずにはいられなかった。
そして、2発目の右ストレートはまっすぐ正面をめがけて打っていた。
この一連の動作を見るとよけいに訳(わけ)がわからなくなる。1発目と2発目、打っている場所がまったくちがうのだ。
俊矢や練習生たちは、「なんだ、あのパンチは?」と、ずっと不思議(ふしぎ)に思っていた。
星乃塚は言う。
「ある意味、ふるいテクニックのアレンジ・バージョンと言えるな」
「ふるいテクニックのアレンジ、ですか?」
「そうだ。現代のボクシングでは、ワンツーはクイックでおこなうのが主流だからな。
ワン・ツーのリズムで打ったら動作の間隔(かんかく)が長すぎる。最初の1発目が当たったとしても、肝心(かんじん)の2発目がよけられてしまう。
だから、最初のジャブはフェイントのようなかたちで小さくだし、間髪(かんはつ)をいれずに2発目のストレートを放つ――これが、現代のワンツー・パンチだ」
俊矢も、月尾会長から「ワン・ツーではおそい。ワツーのテンポで打て」と指導を受けている。
ワンとツーの間隔をみじかくクイックで打つのが一般的なワンツーの打ち方なのだ。
一般的な打ち方では、強く打つのは2発目のストレートで、最初のジャブはかるく当てるだけか、もしくはフェイントとして前の拳を小さく動かすだけだ。
だが、モハメド・アリの影響でボクシングがスピード化する以前は、ワンツーというのは『最初のジャブを強く当て、相手の動きがとまったところに2発目のストレートでとどめをさす』というコンビネーションだったのだ。
カツオの場合は最初のジャブを突きあげるようにして打っているが、『1発目を強く当てて相手をくずし、2発目で決める』という技のつなぎ方は、ふるいワンツーの打ち方とまったくおなじ原理だった。
霧山は言う。
「カツオの1発目のジャブは、単に相手の顎をあげているだけではない。2発目をファントム・パンチにする効果をもっている」
「ファントム・パンチ!?」
「見えない打撃のことを、まぼろしの拳――ファントム・パンチと言う。
カツオは1発目のジャブで相手の顔を上に向かせ、2発目のパンチが見えないようにした。それによって右ストレートが不意打ちのようなかたちになり、莫大(ばくだい)なダメージを与えることになったんだ」
リングでは、レフェリー役の月尾会長がカウントをとっている。
「……ファイブ、シックス」
烈は大の字になったまま、まったく動く気配がなかった。
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