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過去に経験した挫折や苦悩をひととおり話し終えたところで、誠一は言った。
「最近では、どんなにつらくても自分のマイナス感情から逃げないようにしてるよ。
それを抑(おさ)えつけたり、ごまかしたりはしない。悲しいときには悲しんで、憤(いきどお)るべきときには怒って、悩むべきときには悩む――人間なんだから、それでいいんだって思ってるよ。
生きていれば、いいことばかりじゃないのは当たり前、つらい出来事はかならず起きる。それはしかたのないことなんだ。
大事なのは、マイナス感情がやってきたらそれから逃げずに、それとともに生きること――そう自分に言い聞かせるようにしてるよ」
「誠一のその意見には、全面的に賛成だな」
賢策は言う。
「マイナス感情が苦しいからといって、それから逃げようとすると、かえってネガティブな状態になる。マイナス感情をおそれる、という新たなマイナス感情を生みだし、否定の連鎖(れんさ)をつくりだすことになるからね。
つらい想いは、逃げたり抑圧したりせずに、ひたったほうがいいんだ。そのほうがはやく解消される。これは心理学的な真実なんだ」
心理学に精通している賢策が言うと、ことのほか説得力がある。
賢策はつづけて言う。
「……と言っても、この『ひたる』という方法は、あまり人には勧められないんだけどね。いまリアルタイムで苦しんでいる人に向かって『苦しめ』と言っているのとおなじだからね。
だからこれは、苦悩から逃げない勇気をもてた人にしか勧められない方法だよね」
「そうだな。俺だって、いつもかならず逃げずにひたっているわけじゃない。本当につらくて苦しいときは、自分の感情をごまかしてつらくないふりをしたり、ポジティブなふりをしたりすることもあるよ」
「僕もだよ。理屈ではわかっていても、なかなかそこまで強くなれるもんじゃないよね。
本当は自己嫌悪感にさいなまれているくせに、だめな自分が受けいれられなくて、見栄(みえ)をはった生き方をして、ますます自分がいやになっていく――僕がいままでに何度もくり返してきたことだよ」
カツオは、誠一と賢策の話を聞いているうちに心がかるくなってくるのを感じた。
カツオにとってこのふたりは敬意の対象であり、一目(いちもく)も二目(にもく)もおく存在なのだ。
そのふたりが、自分が落ち込んだときの話をしている。そのときの感情を思いだしながら、自分のよわさをさらけだすようにして話している。
誠一くんや賢策くんだって、つらいときには落ち込んだり、悩んだりしてるんだ――
そう思うと、なんだか安心して、心がかるくなってくる。
そして、カツオは気づいた。慰(なぐさ)めの言葉をかけられるとなぜみじめな気持ちになるのか――
それは、慰める者と、慰められる者とに分割されるからだ。
慰める側は、上から目線で言っているつもりはなくても、どうしても上になってしまう。慰められる側は、低くてよわい立場におかれてしまう。
だから、みじめさを感じてしまうんだ。
きっとふたりは、そのことを知っているにちがいない。
だからカツオが落ち込んでいるのを見ても、慰めの言葉をかけようとはしなかった。上に立とうとはしなかった。
その代わりに、落ち込んでいるカツオとおなじ目線におりてきた。
さりげないことだけど、すごいことだと思う。
いや、さりげないからこそ、すごいと思う。
こういうことを当たり前のようにやってのけるには、芯(しん)のある強い心がないとできないはずだ。
誠一くん、賢策くん……ふたりとも強いよな。
こういうのって、殴り合いのスキルがあっても身につかない強さだよな。
そう思った瞬間に、閉ざされていたカツオの心がひらいた。
「オレさ、昨日、ノックアウトされちゃったんだ……」
カツオは、あのスパーリングのことをふたりに話しはじめた。
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