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「えっ!」
俊矢は驚き、目を見ひらいた。
「それじゃ、最初からカツオさんを敗北させるためのスパーだったんですか!?」
「そうだ」
「どうして、そんな……」
「試練なんだよ。プロ候補生には、かならず課す試練なんだ」
「そんな試練があるなんて知りませんでした……」
「俊矢の場合はもう終わってるからな。
俊矢には、おなじ階級にプロボクサーの霧山(きりやま)がいる。圧倒的に格上の霧山とスパーをさせることで、俊矢には何度も敗北を経験させている。
俊矢は気づいていなかったかもしれないが、もう終わっていたんだよ、おまえの場合は」
「でも、どうしてそんなことを……」
「ウチのジムでは、『まける側の気持ちを知っていること』が、プロのファイターには不可欠だと考えているのさ。
勝つということは、相手に敗北の屈辱を与えること――そのことを頭による知識ではなく、身をもって理解させる。
それが、この試練の目的なのさ」
「そうだったんですか……。
だとしたら、このあいだのスパーは、おれにとっても試練だったと言えます。自分がまけるより、カツオさんの敗北を見せられるほうがずっとつらかったですからね。
勝負というものについて、あらためて考えさせられました」
「とはいえ、この試練には大きなリスクがともなっている。与えられた敗北感が大きすぎると立ち直れなくなっちまうからな。
カツオの場合はちょっとやばいかもな……。あれはさすがにやりすぎだぜ。プロのボクサーでもあんなふうにノックアウトされたら、引退を考えちまうからな」
「……カツオさん、心配ですね」
「ああ……だが、こればかりはどうしようもねぇ。立ち直れるかどうかは、すべてカツオしだいだ」
「なんだか、歯がゆいですね」
「そうだな……だが、いちばん歯がゆく思っているのは、滝本さんだろうぜ」
活気をなくしているジムのなかで、滝本トレーナーは特に元気がなかった。
あのスパーリングのとき、滝本トレーナーはずっと口をつぐんでいた。
この試練のときは、トレーナーはアドバイスをすることを禁止されている。
それはそうだろう、この試練の目的は敗北を経験させることなのだ。トレーナーが指示を与えることで勝ったりしたら、この試練の意味がなくなってしまう。
スパーリングのあいだ、滝本トレーナーは指示をだすのをがまんして、カツオがノックアウトされるのを黙って見ていた。
あれは、つらかったにちがいない。
そして、自分の担当している教え子が、敗北感から立ち直れずにこのままボクシングをやめてしまうかもしれない。いや、その可能性のほうが高いのだ。これで心が痛まないはずがない。
滝本トレーナーの表情は、まるで自分自身が惨敗したかのように暗くしずんでいる。
カツオの敗北は、月尾ジムに暗い影を落としていた。
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