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第二章
殴られることがこわいんじゃない
「まけると、こういう気持ちになるのか……」
カツオはいま、敗北というものを思い知らされていた。
大賀烈(おおが れつ)との対戦から一夜が明けていた。
昨夜はくやしい思いを噛みしめながら床(とこ)についた。
さまざまな思いが頭のなかをうずまいていたにもかかわらず、すぐに眠りに落ちた。体のほうは疲れ切っていたようだ。
そして午前9時すぎに目がさめた。じつに12時間近く眠っていたことになる。
目覚めたときには、「しまった、寝坊した」とまっさきに思った。いつもは早朝の5時に起きて外を走っているのだ。
だが、その必要はないことに気づく。
滝本(たきもと)トレーナーからしばらくのあいだジムワークを休むように言われていた。プロの選手が試合でノックアウトされたときとおなじように、休養する必要があると判断されたのだ。
この休養期間中はロードワークもしてはいけない。
ダメージから回復するためには休養に徹しなければならないのだ。
そして、高校生のカツオにとっていまは夏休み――寝坊を気にする必要はないのだった。
滝本トレーナーに言われた休養の期間は、1週間。
しばらく練習はない。
昨年の11月に月尾(つきお)ジムに入門して以来、ボクシングからはなれる生活をするのははじめてのことだった。
頭痛がひどかった。ちょっとでも動くと頭にガンガン響いてくる。
これが殴られてダメージを受けるってことなんだ、と、カツオは身をもって知った。
「まけると、みじめだな……」
昨日はくやしい気持ちがいちばん強かった。
ちくしょうって想いが胸に込みあげていた。
その想いは一種のまけん気であり、気分を昂(たか)ぶらせるものだった。
だが、いまはみじめな気持ちしかない。
心が重くしずんでいる。
どうしようもないくらいに重くしずんでいる。
「やっぱりムリだったんだ、オレなんかには……もともと、よわい男なんだ」
カツオは子供のころから体が小さかった。おまけに気がよわかった。小動物のようにいつもびくびくしていた。
まわりの子供たちによくからかわれ、ときにはいじめられることもあった。
そんな『小動物系へたれキャラ』として幼少期をすごしたカツオは「強い男」に対する憧(あこが)れが人一倍強かった。
だからこそ、格闘技に興味をもった。
なかでもボクシングがいちばん好きだった。ドキュメント映画でモハメド・アリをはじめて知ったときには、身震いするくらいに感動した。
とはいえ、みずから格闘技を習う勇気があるわけではなかった。
実際にやるとなると、こわくてとてもできなかった。
だが、そんなカツオに転機がおとずれた。
昨年の11月、高校2年の晩秋にちょっとした出来事が起こり、ボクシングをはじめる勇気がわいてきたのだ。
ボクシングをはじめてからは、毎日が充実していた。
入門時に課せられる最初の試練につまずきかけたものの、カツオはボクシングが楽しくてたまらなかった。
まるでボクシングに憧れつづけてきた想いがようやく出口を見つけて噴きだしているかのようだった。
ボクシングをやっていることが、嬉しかった。
憧れのモハメド・アリとおなじ競技をやっていることが、たまらなく嬉しかった。
ただただ、ボクシングが大好きだった。
でも――
「好きなだけじゃダメなんだ……そんなにあまくないんだ、プロの世界は……
子供のころから臆病で、小動物のようにびくびくしていたオレなんかが、プロの世界でやっていけるわけがなかったんだ……」
強い者ばかりを集め、勝ち残りをかけた闘いをさせる――いまさらながら、おそろしい競技だと思う。
そして、自分が場ちがいな世界にいることを実感した。
リングにあがることを想像すると、こわくてたまらなかった。
闘うのがこわかった。
まけるのがこわかった。
でも、殴られることがこわいんじゃない。
痛い思いをするのがこわいんじゃない。
『敗北』というはっきりとした結果によって、自分のすべてが否定されてしまう――それが、こわかった。
「ここまでかな……」
カツオは、ボクシングをつづけていく自信がなかった。
子供のころは気が小さくて臆病だった。運動神経だっていいほうではなかったし、ケンカもよわかった。
へたれだったオレがいままでやってこれたんだ。それだけでも身の丈(たけ)を大きく越えた成果だよ。
きっとこれが、オレの能力の限界なんだ……。
頭のなかで、そんなつぶやきがくり返された。
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