2018年10月17日水曜日

このスパーは、おそらくアレだ(2)

**********

 俊矢はビデオカメラを手に、リングのそばに立った。
 カツオと大賀烈はすでにリングにあがっており、カツオは青コーナー側、烈は赤コーナー側で待機している。
 ボクシングでは格上の選手が赤コーナー側につくのが一般的で、今回のスパーリングもその慣習にしたがっていた。

 対戦する両者のほかにもうひとり、月尾会長がリングにはいっている。レフェリーをするためだ。
 通常のスパーリングであればレフェリーはいないのだが、今回は試合形式でおこなうため、月尾会長がその役目を担当する。

 カツオのいる青コーナーには滝本トレーナーが、大賀烈の赤コーナーにはエムビージムの片倉会長が、それぞれセコンドについている。

「準備は整ったな」
 俊矢のとなりにやってきた人物が、リングを見つめながら言った。

 星乃塚秀輝(ほしのづか ひでき)――月尾ジムの筆頭プロボクサーだ。
 26歳。
 戦績は19戦全勝で、現在、日本ライト級の4位にランキングされている。
 怪我のため、およそ1年のあいだ試合ができずにいたが、2ヶ月後に再起戦をやることが決まっている。
 身長は173センチで、俊矢よりも4センチほど高い。ならんで立つと、二階級ぶんの体格のちがいがはっきりと見てとれる。


「ふたりとも、気合いのはいったいい顔をしてるじゃないか」

 星乃塚は、リングに視線を向けたまま笑みをたたえた。
 肌は浅黒く、ややいかつい顔だちをしているため、精悍(せいかん)でワイルドな印象を受けるが、笑うと一転してやさしい顔になる。
 俊矢たちにとっては『アニキ』のような存在だった。

「おれも、そう思います」
 俊矢は応(こた)えて言った。
「両者ともに本気でやり合う覚悟なのが見てとれます。本物の試合のような緊張感がこっちまで伝わってきます」

 ラウンド終了のブザーが鳴った。
 1分間のインターバル(休憩)のあと、次のラウンドがはじまるのと同時に、カツオと大賀烈のスパーリングが開始される。

「星乃塚くん――」

 ふいに、背後から声をかけられた。

 神保マネージャーだった。

「そこで何をしてるんです? 練習は終わったのですか?」

「ああ、終わったよ」

「本当ですか?」

「本当だって。ストレッチも念入りにやったし、クールダウンも完璧だ。俺のトレーナーなんだから、うたがう前にちゃんと見てろよ」

 神保マネージャーはトレーナーの資格を有(ゆう)しており、現在、選手をひとり担当している。
 その選手というのが星乃塚なのだ。

「今日は何かといそがしくて見ているひまがなかったのです。このスパーリングを取り決めた責任者として、いろいろとやることがありましたからね」

「……この対戦、マネージャーが仕組んだのか?」

 星乃塚がいぶかしげに尋ねると、神保マネージャーは意味深な笑みを浮かべた。
 そして、何も答えることなく俊矢たちの前から去っていった。

 星乃塚は、俊矢に向き直った。
 表情が険(けわ)しいものになっている。
「俊矢、ビデオを撮りながら、このスパーをしっかりと観ておけ。今回のスパーは、おそらくアレだ」

「アレ?」

「このスパー、あのドSが仕組んだのなら、カツオにとってきびしい闘いになる」

「…………」

「そして、この闘いを観ることは、ほかのプロ候補生にとっても痛烈な経験になる――
 会長はそう判断して、俊矢にビデオ係を言いつけたんだ、このスパーを観戦させるためにな」

 俊矢は、ぞっと背筋が凍りつくような感覚におそわれた。
 星乃塚の言う『アレ』がなんであるのか、俊矢にはわからない。だが、このスパーリングがただ事ではなく、カツオに何かが起ころうとしているのはまちがいなかった。

 もうすぐインターバルが終了し、次のラウンドが開始される。

「カツオさん……」

 俊矢は言いようのない不安にさいなまれながら、祈るような気持ちでビデオカメラを構えた。

 続きを読む