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俊矢はビデオカメラを手に、リングのそばに立った。
カツオと大賀烈はすでにリングにあがっており、カツオは青コーナー側、烈は赤コーナー側で待機している。
ボクシングでは格上の選手が赤コーナー側につくのが一般的で、今回のスパーリングもその慣習にしたがっていた。
対戦する両者のほかにもうひとり、月尾会長がリングにはいっている。レフェリーをするためだ。
通常のスパーリングであればレフェリーはいないのだが、今回は試合形式でおこなうため、月尾会長がその役目を担当する。
カツオのいる青コーナーには滝本トレーナーが、大賀烈の赤コーナーにはエムビージムの片倉会長が、それぞれセコンドについている。
「準備は整ったな」
俊矢のとなりにやってきた人物が、リングを見つめながら言った。
星乃塚秀輝(ほしのづか ひでき)――月尾ジムの筆頭プロボクサーだ。
26歳。
戦績は19戦全勝で、現在、日本ライト級の4位にランキングされている。
怪我のため、およそ1年のあいだ試合ができずにいたが、2ヶ月後に再起戦をやることが決まっている。
身長は173センチで、俊矢よりも4センチほど高い。ならんで立つと、二階級ぶんの体格のちがいがはっきりと見てとれる。
「ふたりとも、気合いのはいったいい顔をしてるじゃないか」
星乃塚は、リングに視線を向けたまま笑みをたたえた。
肌は浅黒く、ややいかつい顔だちをしているため、精悍(せいかん)でワイルドな印象を受けるが、笑うと一転してやさしい顔になる。
俊矢たちにとっては『アニキ』のような存在だった。
「おれも、そう思います」
俊矢は応(こた)えて言った。
「両者ともに本気でやり合う覚悟なのが見てとれます。本物の試合のような緊張感がこっちまで伝わってきます」
ラウンド終了のブザーが鳴った。
1分間のインターバル(休憩)のあと、次のラウンドがはじまるのと同時に、カツオと大賀烈のスパーリングが開始される。
「星乃塚くん――」
ふいに、背後から声をかけられた。
神保マネージャーだった。
「そこで何をしてるんです? 練習は終わったのですか?」
「ああ、終わったよ」
「本当ですか?」
「本当だって。ストレッチも念入りにやったし、クールダウンも完璧だ。俺のトレーナーなんだから、うたがう前にちゃんと見てろよ」
神保マネージャーはトレーナーの資格を有(ゆう)しており、現在、選手をひとり担当している。
その選手というのが星乃塚なのだ。
「今日は何かといそがしくて見ているひまがなかったのです。このスパーリングを取り決めた責任者として、いろいろとやることがありましたからね」
「……この対戦、マネージャーが仕組んだのか?」
星乃塚がいぶかしげに尋ねると、神保マネージャーは意味深な笑みを浮かべた。
そして、何も答えることなく俊矢たちの前から去っていった。
星乃塚は、俊矢に向き直った。
表情が険(けわ)しいものになっている。
「俊矢、ビデオを撮りながら、このスパーをしっかりと観ておけ。今回のスパーは、おそらくアレだ」
「アレ?」
「このスパー、あのドSが仕組んだのなら、カツオにとってきびしい闘いになる」
「…………」
「そして、この闘いを観ることは、ほかのプロ候補生にとっても痛烈な経験になる――
会長はそう判断して、俊矢にビデオ係を言いつけたんだ、このスパーを観戦させるためにな」
俊矢は、ぞっと背筋が凍りつくような感覚におそわれた。
星乃塚の言う『アレ』がなんであるのか、俊矢にはわからない。だが、このスパーリングがただ事ではなく、カツオに何かが起ころうとしているのはまちがいなかった。
もうすぐインターバルが終了し、次のラウンドが開始される。
「カツオさん……」
俊矢は言いようのない不安にさいなまれながら、祈るような気持ちでビデオカメラを構えた。
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