2018年6月8日金曜日

ボクサーは現代の戦士だ (本条克明のボクシング観)


今回はボクシングに関するエッセイです

***

 短い期間でしたが、僕はプロボクサーだったことがあります。


 若い頃は精悍(せいかん)だったよなぁ、細マッチョだし。
 いまこうして見ると、なんだか自分とは思えませんね(笑

こいつ(↑)と同一人物です。本当です。


ボクサーは「現代の戦士」


 僕がボクサーの道を志したのは、17歳のときでした。
「僕がボクサー」って、語呂が良くないよなぁ(笑

 22歳(大学四年生のとき)に、プロテストを受けて合格。

 階級は、フェザー級。
126ポンド(約57キロ)以下の階級です。

 デビュー戦で後楽園ホールのリングにあがり、2ラウンドでノックアウト勝ちを収めました。

 ですが、その後、練習で怪我をしてしまい、次の試合をすることなく引退。
 僕のプロボクサーのキャリアは、この1戦のみとなりました。

 なんとも複雑な終わり方をしてしまいましたが――
 でも、ものは考えようで、ダメージを受けることなくボクシングを終えることができたのだから、これはこれで良かったんだと思います。

 ……というのは自分を納得させるための建前で、やっぱり心のどこかに少なからず未練が残っていたりします(苦笑
 勝ったまま引退しているので、
「もしあのまま続けて順調にキャリアを積んでいたら、チャンピオンになれていたんじゃないだろうか……」
 と、どうしても思うときがあります。
 いまだにリングにあがる夢を見ることがあるので、やっぱり未練があるんだろうなぁ……。


ボクシングは若者の特権


 とは言うものの――
 たとえリングにあがるチャンスを与えられたとしても、いまはもう闘えないでしょうね。

 ボクシングという競技は、若者の特権ですからね。
「憎くない相手と殴り合う」
 というジレンマ(矛盾しているもどかしさ)を乗り越えて拳(こぶし)を使うには、若さゆえのがむしゃらさがないとできませんからね。


ボクシングは紳士のスポーツ 誠実であることが強くなる秘訣


 むかしボクシングをやっていました、という話をしておきながらいまさらではあるのですが……

「若い頃、プロボクサーでした」って人に打ち明けるのは、いつだってためらいを覚えます。

 ボクシングという競技は、けっしてイメージが良いとは言えませんからね。
 特に女性に話すと、
「えっ! 本条さんって、むかし不良だったんですか!?」
 という反応をされて、おもいっきり引かれたりします(苦笑

ボクシング不良が更生するためにやるもの

 という偏見をもたれるのは、本当にこまるんですよね。
↑愚痴です(笑

 ボクシングにはそういう側面もあるので、更生を目的に入門する人(入門させられる人)も、確かにいます。
 ですが、そういう人たちは少数派です。

 真剣にボクシングをやっている若者の大半が、純粋に『ボクシング』という競技が好きでやっています。

 野球やサッカーをやっている人たちだって、その競技に憧(あこが)れ、その競技が好きだからやっているんでしょう?
 ボクサーだって、おなじです。
 たまたま好きになった競技がボクシングだったというだけで、偏見をもたれるのは心外ですよね、やっぱり。
↑愚痴です(笑


まだ夜が明けきらないうちに起きて走って
毎日ハードなジムワークをこなして
食べたいものを我慢(がまん)して節制して
1対1で激しく殴り合って

 こんなこと、本当に好きでなければできません。
 そして、誠実な心を持っていなければ、こんな生活はつづけられません。

 ボクサーというのは人一倍、真面目(まじめ)な人間です。
 それが、「ボクサーの真実」なんですね。
近代ボクシングはイギリスを発祥とする『紳士のスポーツ』です。覚えておいてくださいね(笑


誰もが「現代の戦士」になれる


 英語圏ではボクサーのことを、ファイター(戦士)と称しています

 そう、ボクサーというのは「現代の戦士」なんです。

 僕は、いまでも戦士の端(はし)くれだった人間として、

高潔(こうけつ)で、
勇敢で、
誇り高く、
人にやさしい

 そんな騎士道精神を胸にいだいた男でありつづけたいと思っています。


 逆を言えば、高潔で、やさしい心があるのなら、誰もが「現代の戦士」なんだと思います。

戦うスキルを身につける必要もなければ、人に勝つ必要もない
胸に騎士道精神があるのなら、それだけで人は「戦士」なんだ

 精神的な意味での「強い」とは、きっとそういうことだと思うんだ。


このエッセイは、本条克明が以前に運営していた『本条克明ライターズブログ』というサイトに掲載した記事を改訂したものです。

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