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俊矢の練習は、月尾会長が担当している。
指導はトレーナーに任せるのが会長の方針なので、会長みずから教えるのはとてもめずらしいことだった。
同期で入門した練習生はほかにも何人かいるけど、プロ志望ではいってきたのはオレと俊矢だけだった。
プロ志望者には、入門から約3週間、精神的にきつい試練を与えるのが月尾ジムの方針だ。
試練というのは、ジムで最初に教わるのが『立ち方』なんだけど、プロ志望者には「それしかやらせない」というものだ。
許されている練習は、両手を腰に当てて半身(はんみ)をとり、前後に移動するだけ。
3週間、これを課すことで、
『会長やトレーナーの言うことを素直に実行できるかどうか?』
『毎日おなじ練習のくり返しに耐えられるのかどうか?』
それを試していた。
もちろん、こんな試練を与えていることなど、本人には知らせない。
試練が終わるまで誰も教えてはいけない。
これは、精神的に追いつめられる試練だった。
おなじ時期にはいってきたほかの練習生がミットやサンドバッグを打たせてもらっているのに、プロを目指してはいってきた自分には拳(こぶし)を構えることさえ許されない。
あせり、不安、不信感――否定的な感情に押しつぶされそうになる。
俊矢は、会長に言われたことを黙々とつづけるやつだから傍目(はため)にはわかりにくかったけど、でもこの試練のつらさを知っているオレは、俊矢の苦悩を察していた。
オレは、会長やトレーナーに気づかれないように、そっと俊矢に耳打ちした。
「がんばれよ。耐え忍べば、終わりはかならずやってくるから」
そして、3週間後――
俊矢は試練を突破して、プロ候補生として本当のスタートを切ることになった。
俊矢はこの試練を難なく突破したかのように、みんなには見えた。
でも、オレにだけは本音(ほんね)を話してくれた。
「もしあのときカツオさんが励ましてくれていなかったら、心が折れていました。本当に、ありがとうございます」
この言葉は、すごく嬉しかったよ。
そしてオレたちは、このときから本物の『ジムメイト(同門の仲間)』になったんだ。
試練が終わり、本格的な指導を受けるようになってからの俊矢は凄(すさ)まじかった。
とにかく、すごい練習量なんだよ。
会長が、
「オーバーワークに気をつけろ!」
と、たびたび注意をうながしているけど、俊矢にはムダだった。
俊矢の練習ぶりには誰もが目を見張ったよ。
まるで『がむしゃら』という言葉を全身で体現しているかのようなんだ。
サンドバッグにも、会長が持つミットにも、イメージでつくりだしたシャドー(幻影)にも、全力で、歯を食いしばって、一心不乱(いっしん・ふらん)に打って打って打ちまくるんだ。
そしてオレは、ジムメイトとして、先輩として、そんな俊矢を誇らしく思うと同時に、
「オレも負けてられないぞ!」
ボクサーとしての闘志を奮い起こされているんだ。
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